2020/11/05

【特別寄稿】日本学術会議の過去、現在、未来

 

東京大学名誉教授・日本学術会議元副会長 唐木 英明 氏

 

 日本学術会議をめぐり、国会で与野党が対立。リング外でも誹謗中傷の嵐が渦巻いている。学術界のコップの中の議論は一般人には非常に分かりにくい。ウェルネスニュースグループの顧問で、「なちゅらる通信くりーど」で健康食品の歴史について連載中の唐木英明氏が、自らの経験を元に、この騒動を分析する。

 

今回の4つの問題

 菅総理が日本学術会議(日学)の会員候補のうち6名を任命しなかったことが大きな騒ぎになっている。普段は日学に何の関心もない新聞、テレビ、そして野党が連日この問題を取り上げているが、その議論を聞くと、日学の歴史も役割も十分に理解していないことがよくわかる。2000年から11年間、日学会員を務めた経験から、この問題について解説する。

 日学は内閣府に属する国の機関であり、会員は特別職の公務員である。日学の仕事は、政府の諮問に対して答申すること、内外の科学者と連携をとること、そして科学の役割についての世論啓発をすることである。日学会員は文系から理系までのすべての分野から選ばれた210名で、任期は6年。3年ごとに半数が交代する。新しい会員は現在の会員が科学者の中から選考して総理に推薦し、総理が任命することになっている。

今回問題になっているのは、日学が推薦した候補を、総理がそのまま黙って承認する義務があるのか、すなわち日学が推薦権だけでなく、実質的任命権を持っているのかである。政府は日本学術会議法などを検討して、任命権は総理にある、すなわち日学から推薦された通り任命する義務はないとしているのだが、野党などは納得していない。この議論はすれ違いであり、政府は決定を変更することはないと考える。

 2番目の問題は、任命を見送った理由を明らかにしろという要求だが、これは社会通念上あり得ない。理由を述べることは人権侵害にもなりかねないからであり、多くの人事に共通する常識である。会員は優れた研究または業績がある科学者のうちから選考することになっているが、そのような候補は数多く存在する。その中から専門性、所属大学や地域、年齢、性別など数多くの要素を勘案してバランスよく選考することが求められる。そしてバランスの考え方に日学と総理の違いがあっても当然である。

 3番目の問題は、任命の見送りは学問の自由の侵害という議論だ。学問の自由とは研究の自由と教育の自由だが、日学は事務機関であり、研究機関でも教育機関でもない。任命を見送られた人たちは大学教授であり、会員にならなかったからといって、大学における研究と教育、自由には何の影響もない。「任命しなかった原因は反政府運動をしたから」と推測して、これが学問の自由の侵害に当たるとする意見があるが、会員になろうがなるまいが、反政府運動をするのは個人の自由であり、その自由をだれも侵害していないのだ。

 4番目の問題は、なぜ菅総理がこのような「面倒なこと」をしたのかである。それを考えるためには、日学の歴史と政府との関係を知る必要がある。

 

日学の歴史と政府との関係

 日学は占領軍総司令部GHQ内の左派の支援により1949年に国の機関として発足した。初代会員選出では激しい選挙運動が展開され、共産党シンパの研究者が多数当選し、その後の方向を決めた。50年に日学は吉田茂総理に元号の廃止を申し入れている。そこには「新憲法の下に天皇主権から人民主権に変わり、日本が新しく民主国家として発足した現在では、元号の維持は意味がなく、民主国家の観念にもふさわしくない」と書かれている。同じ50年にGHQはレッドパージを実施したが日学には無影響だった。

 吉田首相は日学の申し入れに驚いたのだろう。早速、日学の改革を試みた。50年に行革の一環として日学の所管を総理府から文部省に変更することを求め、53年には民間移管を検討した。しかし日学の反対が強く、実現しなかった。そこで、政府は日学の力をそぐ方向に方針を転換した。56年の科学技術庁設置、59年の科学技術会議創設、67年の文部省学術審議会発足により、日学の政策提言機能は不要になり、80年代の各省庁審議会設置により日学への諮問はほとんどなくなった。この間の諮問の数を見ると、49~53年には36件あったが、54~58年は18件、59~63年は12件と減少し、64年と65年に各1件、66~00年までの35年間はゼロ、そして01、04、07年に各1件だった。

 81年に政府は2度目の改革を実施し、会員選考を選挙から学会推薦に変更した。このとき野党の反対を封じるために「推薦者をそのまま任命する」と中曽根総理が国会答弁したことが現在問題になっている。改革により組織的な選挙運動の弊害は無くなったが、会員が母体学会の利益代表になるという新たな弊害が生じた。

三度目の改革は90年代に始まる行革の波の中で行われ、多くの検討の結果、05年に現会員が次期会員を選出する方式に変更した。また「俯瞰的、総合的な視点から提言を出す」体制作りを目指すとともに、10年の猶予期間後に民営化を検討することになった。そして15年に猶予期間が終了したのだが、この時の検討にはなぜか政府の意見がなく、現状維持が認められた。

その直後の16年に定年で退任した会員の補充人事があったが、大西隆元会長がメディアに語ったところでは、候補者について官邸から異議があり、補充が見送られた。翌17年には日学自身が学問の自由を阻害していると批判されている「軍事的安全保障研究に関する声明」を出している。そして、同じ17年に、会員の半数交代のための候補者を選考したのだが、この時には日学は定員より多い候補を官邸に提示している。大西元会長は「もし官邸側から名簿に異議があれば持ち帰り議論するが、それは起こらなかった」と述べている。要するに、日学は総理の任命権を認めて、候補者の中から会員を選んで任命してもらう方式を採用したのだ。そして18年に政府は日学の「推薦の通りに任命する義務はない」とする政府見解をまとめている。20年に会員の半数交代の時期を迎えて候補者を選考したのだが、この時に山極前会長は官邸との事前協議を拒否したという。そして、6名の任命が見送られた。

17年に日学は会員候補を事前に官邸に提示して協議する方式をとったにもかかわらず、20年にはこの前例を破棄するという信義違反をなぜ行ったのだろうか。その辺の事情を大西元会長も、山極前会長も明確に語っていない。これが今回の事態の背景にある事実である。

 

日本学術会議の今後

 私は09年から11年まで日学副会長として働いたのだが、この間は政府との関係改善に努力し、わずかながらも諮問が出された。退任後は残念ながら新たな諮問はなく、自主的に数十件の報告などを発表しているが17年の「軍事的安全保障研究に関する声明」以外に社会的な影響はほとんどない。

国との関係が悪化しただけではない。選挙制度がなくなり、学会とのつながりも切れて、科学研究費審査委員の推薦権も05年に失い、日学は研究者との接点がほとんどない「根無し草」になった。これも国の機関でありながら政府と対立した結果であり、現状では日学に明るい未来は見えない。これは政府にとっても日学にとっても極めて不幸な事態である。お互いに満足できる関係になるためには、欧米のアカデミーに倣って、日学が民間組織に生まれ変わり、組織の運営に対する政府の関与を排除するとともに、自身は真に社会の役に立つ提言機関として活動する道を選ぶしかないと考える。残念ながら、いきなり民間組織に変わって生き延びるだけの実力を持っていない。当面は国の援助を得ながら、徐々に独立を果たす方向を目指すべきと考える。

(了)