2020/08/12

歴史から見えてくる課題は何か?(10)

 

 

明治の改革「医師免許」

 1867年(明治元年)、会津で白虎隊が全滅したころ、明治政府は医療の近代化を目指して、「太政官布告」を発した。そこには次のように書いてある。

 「医師は人の生命にかかわる大事な職業であるにもかかわらず、学問も技術もない素人が医師と称し、人命を奪うことまであるのは見過ごすことができない。そこで医学所を作り、学業と技術の教育を行う。そして免許を得た者でなければ医業を行う事が許されなくなる」。

 

開業中の漢方医には仮免許

 それまでは医師免許はなく、誰でも自由に医者と称することができた。その大部分が漢方医だった。また、加持祈祷を行う僧医もいた。それは明治政府から見れば前近代的で非科学的な素人医者だった。そこで1874年に「医制」を制定し、医師制度と薬剤師制度を作り、長崎・東京・大阪に医学校を作り、81年には漢方医を廃止し、針・きゅう・あん摩・柔道整復術を行っていた者はすべて医術開業試験を合格しないと医療を行うことができなくなり、多くが廃業した。

 しかし、そんなに簡単に医師の数は増えない。そこですでに開業していた漢方医に仮免許を与えることで混乱を回避したという。

 

様々な売薬規制を実施

 また、薬剤師制度のなかで医薬分業、すなわち医師による医薬品の販売を禁止し、薬剤師に委ねる措置を取ろうとした。しかし、まだ薬剤師が少ないこと、そもそも医師の収入は医薬品の販売に頼っていたため医師からの猛反発があり、医薬分業は成功しなかった。

 さらに、明治政府はすべての薬物が「有効無害」であるべきとして、「売薬の中には有名・無効のものがあり、民をあざむき高利をむさぼる傾向にある」として、民間薬も厳しく規制した。

 70年に売薬取締規制、77年に売薬規則、78年に売薬検査心得書、82年に売薬印紙税と矢継ぎ早に政策を実施した。特に売薬印紙税の効果は大きく、全国の売薬で大きな地位を占めていた富山の売薬生産額は課税前には672万円、行商人9,700人だったが、課税3年後には生産額50万円、行商人5,000人と、10分の1以下まで規模が縮小した

 

廃仏運動で消えた僧医

 だが、このような急速な改革は必ずしも実情に合わなかった。試験に合格した医師の数も、政府が認めた医薬品の数も急には増えず、その価格は高く、人々は従来の民間医療を頼り、政府の厳しい取り締まりにもかかわらず、医療の近代化は進まなかった。そして、古くから続く針・きゅう・あん摩・柔道整復術といった民間医療は、多くの需要に支えられて生き延びることになった。他方、江戸時代から始まる廃仏運動、明治政府の廃仏毀釈のなかで多くの寺が廃止になり、僧侶が還俗し、民間医療を担っていた僧医は消えた。

 (つづく)